現在は島全体が国民休暇村となり、野生のウサギと触れ合える癒しの島として多くの観光客が訪れる大久野島ですが、かつては旧日本陸軍の毒ガス製造所が存在し、毒ガスを生産していました。
島に旧陸軍の毒ガス製造所(正式名、東京第2陸軍造兵廠忠海製造所)が開所したのは、1929(昭和4)年5月19日。
毒ガスの大量生産に向け工場の建設地を探していた旧陸軍は、万が一事故が起きても被害が少ないことや離島で秘密が守れることから、大久野島に目を付けました。
当時島に暮らしていた3世帯を強制移住させた上で工場を建設し、軍事秘密保持のために地図からもその存在を消しました。
毒ガス工場には地元の農民や漁民や勤労動員学生ら6500人が一定の養成期間を経て従事していたそうです。
毒ガス工場へは希望入所ではなく国家総動員法の徴用令状により、ほとんどが16-17歳という未成年のまま、強制的に大久野島行かされたとのこと。
作業中の被毒は日常茶飯事でしたが、よほどの重傷でない限り作業を休むことは許されず、
島での作業は家族にさえ口外することは禁じられていました。
現在でも島で作業に従事したことでの後遺症と罪の意識苦しむ方々がいらっしゃいます。
54年には広島大学医学部が行った元工員らへの死因調査や集団検診により、毒ガスと後遺症の因果関係が明らかとなり、元工員らへの補償の道が開かれました。
毒ガス障害者の認定を受けた元学徒や元工員は2015年4月時点で全国に2150人。
しかし認定申請には工員手帳など書類の提出が必要で、当時の書類が残っていない場合も多く、認定のハードルは高いそうです。
島内では、施設放棄から半世紀以上経った現在でも毒ガス施設はその姿を残し、多くが立入禁止区域に指定されています。
施設の立入禁止は毒性の危険性があるためというためではなく、進駐軍による無毒化処理の際に建物ごと焼却したこともあって老朽化が進行し崩壊の危険があるためです。
(焼却されたため建物の内部が真っ黒になっています)
島では戦前および戦中、毒ガスの動物実験用にウサギが飼われていましたが、戦後の毒ガス関連処理の際に全羽殺処分されたため、
現在生息しているウサギは、1971年に地元のある小学校で飼われていた8羽が放されて野生化し、繁殖したという説が有力だそうです。